イギリスの公的保健医療制度(NHS)が積極活用する「糖尿病治療」のVRトレーニング最新事情

イギリスの公的保健医療制度(NHS)が積極活用する「糖尿病治療」のVRトレーニング最新事情

イメージ画像:リハビリのためにVRデバイスを使っている女性

糖尿病治療は、医療における世界的な重要課題の一つです。

世界の糖尿病人口は爆発的に増え続けており、2021年時点で糖尿病有病者数は5億3,660万人。有効な対策をしなければ、2045年までに7億8,320万人に達するとのこと*1。寝たきりの高齢者から活動的な若年者まで、患者層も多様化しています1)

食事・運動療法などの治療に加えて、薬物(糖尿病薬)治療を受けることが一般的ですが、残薬の問題をはじめ薬物治療には課題も山積しており、治療法のさらなるアップデートが求められています。

そんななか、糖尿病治療の質を高めるための一つの選択肢として、近年注目を集めているのがVR(バーチャル・リアリティ)技術です。VR上でのトレーニングによって、医療スタッフのスキルを向上させることが模索されています。

VR技術は、糖尿病治療にどのような変革をもたらすのでしょうか? イギリスのナショナル・へルス・サービス (NHS)における事例を参考に、その最新事情と可能性に迫っていきます。

1)恩賜財団済生会(https://www.saiseikai.or.jp/medical/column/diabetes/)

求められる、質の高い糖尿病治療トレーニング

イメージ画像:患者の手から血糖値測っている医者

一度発症すると、治療によって血糖値を限りなく正常に近い範囲にコントロールし続ける必要がある2)、糖尿病。

膵臓のβ細胞が壊れることにより、体内でインスリンが全く分泌できなくなってしまう「1型糖尿病」、遺伝的に糖尿病になりやすい体質や肥満・運動不足・ストレスなどをきっかけに発病し、体内でインスリンの効果が出にくくなったり、分泌のタイミングが悪くなったりする「2型糖尿病」があります。生活習慣病の代表疾患とも言われ、糖尿病の大部分を占める2型糖尿病は、高齢化と同時に発症年齢の低年齢化も進んでいます3)

とりわけイギリスでは、糖尿病治療の品質向上が、喫緊の課題となっています。

イギリスでは、病院のベッドの6つに1つは糖尿病患者で占められており、2030年には4つに1つになると予測されています4)

患者が多いだけでなく、26万人の糖尿病患者が投薬ミスを経験しており、その結果、深刻な被害や死に至る可能性もあるといいます。さらに1型糖尿病と診断された人が入院すると、生命を脅かすような合併症を発症する可能性も高いとのこと5)

このような状況下で患者へのケアを改善していくためには、医者や看護師といった第一線のスタッフが迅速に対処できるようになるための、質の高いトレーニングが不可欠です。

2)糖尿病ネットワーク(https://dm-net.co.jp/qa1000_2/2006/04/q47.php)

3)恩賜財団済生会(https://www.saiseikai.or.jp/medical/column/diabetes/)

4)Diabetes UK(https://www.diabetes.org.uk/professionals/resources/improving-inpatient-care-programme/report-hospitals-safe)

5)NS MEDICAL DEVICES(https://www.nsmedicaldevices.com/news/vr-medical-training-diabetic-patients/)

ゲームから研究まで、模索されるVR活用

イメージ画像:VRデバイスを使っている医師とMR

トレーニングの質を高めるためにさまざまな方法が模索されていますが、近年注目を集めているのがVR技術の活用です。

例えば、医療用VRゲームの「Diabetes Voyager6)」。ユーザーは糖尿病患者の体内に入り、心臓、脳、血管系を訪れ、糖尿病管理に関する重要な課題に直面するシミュレーションが行なえます。

糖尿病治療におけるVR技術の効果は、アカデミックな研究でも実証されつつあります。Lee & Song(2012)では、VRによる運動プログラムが、2型糖尿病の高齢者のバランス感覚に及ぼす影響を調査しています。VRを用いた運動プログラムは、2型糖尿病を持つ高齢者の転倒防止に適しており、バランス改善に効果的であることが示唆されました*2

6)Sliced Bread Animation Limited.(https://sbanimation.com/case-studies/diabetes-voyager-medical-vr/)

NHSが開発した、VRトレーニングシステム

イメージ画像:イギリスNHSのウェブサイト

こうして糖尿病治療のためのVRトレーニングの活用が模索される中で、ナショナル・へルス・サービス (NHS)も実践に乗り出しています。

2019年、1型糖尿病患者の緊急治療を改善するための、VRを使った医療トレーニングが実施されました。NHS EnglandとVR医療シミュレーション企業・Oxford Medical Simulation (OMS)7)が共同開発したもの。資金はデンマークの製薬会社・Novo Nordiskが提供しました。

NHSの臨床的専門知識とVRソフトウェア、Oculus Riftヘッドセットを組み合わせることで、患者の命を危険にさらすことなく、エクササイズから好きなだけ最大の効果を得られるようになります。

学習者は、急性疾患患者のシナリオを体験します。評価、管理、そして学際的なチームとの交流……実際の生活と同じように行動しなければなりません。 周囲の環境、患者、他のチームメンバーと関わりながら、インタラクティブなコミュニケーションを取っていきます。AIによって、患者の行動や会話、そして身体の生理機能をリアルに再現。エクササイズ後のフィードバック、パフォーマンス指標の表示、自己評価の報告も充実しているため、実践に活きる知識が確実に身につきます。

このシステムの画期性について、NHSの臨床家であり、OMSの共同設立者であるジャック・ポットル氏はこう語ります8)

「私は現場で必要に迫られるときまで、糖尿病の緊急事態に対処する練習をしたことがありませんでした。航空パイロットが練習もせずに大勢の乗客を乗せた飛行機を操縦することはありません。なぜ、医師や看護師にはそれが許されるのでしょうか。」

この技術によって、最大60名の医師が、少なくとも100のシナリオで医療緊急事態に備えることが可能になります。NHSイングランドの糖尿病担当クリニカルディレクター、パルサ・カー氏によると、「テクノロジーの導入はNHS長期計画の中心であり、VRを使った医師のトレーニングは、糖尿病患者のケアを向上させるためのNHSの近代化の一例です」とコメントしています。

2019年4月時点で、Health Education England社を通じて、複数のNHS施設で試験的に導入されました。当時デジタル・文化・メディア・スポーツ担当大臣だったマーゴット・ジェームズ氏は、この取り組みに対して高い評価を下しています。

「OMSは、英国が生み出した画期的なデジタル企業の好例です。 OMS社にお会いしてその技術を試したとき、私は非常に感銘を受けました。NHSの医師が糖尿病患者を治療する際のトレーニングが提供されるのは素晴らしいことです」

7)Oxford Medical Simulation(https://oxfordmedicalsimulation.com/)

8)NS MEDICAL DEVICES(https://www.nsmedicaldevices.com/news/vr-medical-training-diabetic-patients/)

VRは医学部生の必須科目になるか?

イメージ画像:教授と医学生がVRデバイスを使って人体構造を学んでいる

別記事でも詳しく紹介した9)ように、昨今は糖尿病に限らず、医療トレーニングにおけるVR技術の活用が積極的に模索されています。

アカデミアの研究においてもその効果は次々と実証されており、実証実験や実際に使用されるVRプロダクトも続々と登場。近い将来、医学部生の必須科目の一つにVRトレーニングが入ることも、そこまで非現実的な話ではないかもしれません。

インターネット上に構築される多人数参加型の3次元仮想世界を指す10)「メタバース」の標語と共に、近年はますますVR技術への注目が高まっています。ゲームをはじめとするエンターテイメントの世界はもちろん、医療のような社会インフラである領域でも、その重要性は高まっていくことでしょう。とりわけ糖尿病治療のように、治療が決して容易ではない分野こそ、“安心して失敗できる”VRトレーニングの存在意義は大きいはずです。

9)大日本住友製薬 医療関係者向けサイト(https://ds-pharma.jp/learning/xR/article/05.html)

10)The HEADLINE(https://www.theheadline.jp/articles/511)

<出典>
*1
Hong Sun, Pouya Saeedi, Suvi Karuranga, Moritz Pinkepank, Katherine Ogurtsova, Bruce B. Duncan, Caroline Stein, Abdul Basit, Juliana C.N., Chan, Jean Claude Mbanya, Meda E. Pavkov, Ambady Ramachandaran, Sarah H. Wild, Steven James, William H. Herman, Ping Zhang, Christian Bommer, Shihchen Kuo, Edward J.Boyko, Dianna J. Magliano. 2021. IDF Diabetes Atlas: Global, regional and country-level diabetes prevalence estimates for 2021 and projections for 2045. Diabetes Research and Clinical Practice. DOI: https://doi.org/10.1016/j.diabres.2021.109119

*2
Sun Woo Lee, Chang Ho Song. 2012. Virtual Reality Exercise Improves Balance of Elderly Persons with Type 2 Diabetes: a Randomized Controlled Trial. Journal of Physical Therapy Science 2012 Volume 24 Issue 3 Pages 261-265. DOI: https://doi.org/10.1589/jpts.24.261