Apple Vision Proの登場が生んだゲームチェンジ
これまでmedical XRが取り上げてきたように、医療とXR技術を接続して活用する研究は従来から存在していました。しかし、とりわけApple Vision Proの登場を「ゲームチェンジャー」と見て研究開発を強化する動きが起こっています。米国サンディエゴを拠点に非営利の地域医療グループとして病院や医療グループを運営するシャープ・ヘルスケア社は、2024年2月15日、患者のケアを強化するためにVision Proを活用した開発に特化する研究開発センター「Spatial Computing Center of Excellence」を設立すると発表しました。1)
シャープはこのプロジェクトで、電子健康記録ベンダーの Epic Systems社や、オランダのデータアナリティクス企業Elsevier社と提携。臨床医と技術者を集めて、空間コンピューティングがさまざまな専門分野や臨床現場で生産性を高める革新的なアプローチを探るとしています。さらに同センターの学際的研究チームは、空間コンピューティングが共同作業や教育、治療に与える影響を評価し、手術室からベッドサイドのケアまで、医療のさまざまな場面での活用を模索します。1)
また、デジタルヘルス分野のリーディング出版社であるJMIR Publicationsも、Apple Vision Proの公開後に新たなジャーナル「JMIR XR and Spatial Computing(JMXR)」の第一号を創刊しています。2)
同ジャーナルでは健康や医療を含む人間の健康と福祉におけるXRと空間コンピューティングの応用に焦点を当てており、メタバース内での相互作用や社会的つながりを含むXRの医療応用や手術、リハビリテーション、医学教育などについて、過去のJMIRの出版物に掲載された内容とあわせて触れています。2)
1)Sharp HealthCare launches spatial computing center focused on Apple Vision Pro
2)https://xr.jmir.org/
電子カルテ(EHR)をアップデートする
2024年以降の空間コンピューティングの急速な発展が起こる以前から、この領域での活用の研究がとりわけ進んでいた領域のひとつが、電子健康記録(EHR)や電子カルテ(EMR)です。
患者の健康状態や病歴を理解するために、医療従事者は一般的に電子カルテを用います。しかし、数百人以上もの患者を担当する医師が、例えば約15分程度の短い患者の診察時間で、数十年に及ぶこともある患者の病歴を見ながら、説明責任を果たしつつ安全で信頼性の高い診断を下していく必要があります。*1
また、患者のデータには病歴の長さや治療の緊急性、患者間のばらつきなど膨大な変数が個々人にそれぞれ存在しており、かつ時系列順にしか病歴を縦断的にしか見られないため、医療関係者が分析して正しい判断を下すのには大きな負荷や時間がかかる場合があります。3)
こうした課題を乗り越えるために、EHRを空間表現に転換する「Atlas-EHR」と名付けられた研究が行われています。3)
Google Mapが世界中の地理情報を2D・3Dどちらもデバイス上で表示できるように、Atlas-EHRでは、3D空間で身体のシステムや構成要素を解剖学的に表現したり、患者の病歴の概要を表示したりできます。
前述のEpic社では、こうしたEHR/EMRへの空間コンピューティングの応用について、Apple Vision Pro用のアプリを発表しています。4)
まだ正式公開はされていませんが、アップルストアを通じてユーザーに提供され、カルテ作成やチャット、患者のデータや検査結果をApple Vision Proを通じて空間上にバーチャルな情報として表示できるようになる予定だと言われています。5)
3)https://arxiv.org/abs/2305.09675
4)https://www.beckershospitalreview.com/ehrs/epic-dives-into-spatial-computing.html
5)https://www.linkedin.com/feed/update/urn:li:activity:7165706731535151104/
AIと組み合わせて、メンタルヘルス治療にも応用
空間コンピューティングの登場によって発展が期待されているもう一つの領域が、不安障害やうつ病の対応への応用です。例えば、Nature誌には『空間コンピューティングとAIを組み合わせた不安やうつ病のメンタルヘルス支援の可能性』と題された論文が2024年1月に掲載されています。
この研究では、セラピスト不足という課題に対して、拡張現実を用いた人工知能アシスタント(eXtended-Reality Artificially Intelligent Ally:XAIA)を提案し、没入型のメンタルヘルス支援を提供する調査を実施しています。*2
その背景として、コロナ禍や経済的な緊張感、SNSによる孤立化などの要因により、米国ではメンタルヘルス問題の有病率が上昇していることが挙げられています。6)
他方で、心理療法には高額な費用や偏見(スティグマ)が存在し、手頃な価格でアクセスしやすいスティグマのない精神医療を提供するための革新的な解決策が求められているとされています。6)
この実験では、軽度から中等度の不安や抑うつを抱える被験者がXR空間に参加。人間のセラピストをシミュレートするように設計されたGPT-4を組み込んだアバターと会話することで、参加者は自分が「受け入れられている」「役に立っている」「安全であるという」感覚を感じたとされています。6)
また、空間コンピューティングとAIアバターを組み合わせたデジタルセラピーでは、穏やかな自然や瞑想に適した場所など、リラックスできる3D空間を生み出します。7)
患者がアバターに話しかけると、その文脈に関連した仮想環境を生成。さらに、不安を感じている患者のために、XAIAが音楽を選曲したりもします。
しかし、こうしたツールの利便性を評価する人もいる一方で、当然ながら人間との対話を好む人もおり、デジタルVRセラピストを使用することの欠点も論文内では指摘されています。このXAIA技術は、Cedars-Sinai社とVRx Health社との共同研究によって生まれていますが、現在ライセンスはVRx Health社が保有しています。6)
フロンティアとして拡大するXR領域
医療情報を視覚化する3D EHRや、メンタルヘルス領域での活用だけでなく、教育、解剖学、治療の前段階などで空間コンピューティングは多くの活用可能性が見込まれています。7)
それに伴って、さまざまなアプリの開発が進んでいます。Epic System社はすでにApple Vision Pro用のアプリで放射線学や外科学などの分野でこの技術を早期に利用することを想定した開発を進めています。8)
また、Visage Imaging社もApple Vision Proと互換性のある没入型画像処理プラットフォームVisage Ease VPを発表し、放射線科医の診断読影とワークフローを強化したアプリ開発をすでに進めています。9)
これまでのXR研究の蓄積をもとに、Appleの強力なハードウェアやプラットフォームを手にした空間コンピューティング領域は、アプリ開発やビジネスへの応用が急速に進行し、いままさにフロンティアと呼べる状況だと言えるでしょう。
6)https://www.nature.com/articles/s41746-024-01011-0
7)https://healthtechmagazine.net/article/2024/04/spatial-computing-healthcare-perfcon
8)https://www.healthleadersmedia.com/technology/healthcare-moving-toward-3d-ehr
9)Visage Launches Visage Ease VP™ for Apple Vision Pro
<出典>
*1 Majid Farhadloo et al., Spatial Computing Opportunities in Biomedical Decision Support: The Atlas-EHR Vision, arXiv preprint arXiv:2305.09675, 2023
*2 Brennan M. R. Spiegel et al., Feasibility of combining spatial computing and AI for mental health support in anxiety and depression, npj Digital Medicine volume 7, Article number: 22, 2024