「空間コンピューティング」と「AI」を組み合わせた、メンタルヘルス支援の可能性
近年、現実空間とデジタル空間を融合させる「空間コンピューティング(Spatial Computing)」と呼ばれる分野が注目を集めています。その端緒となったのが、2024年2月にアップルが「世界初の空間コンピュータ」という位置づけで発売した「Apple Vision Pro」です。
前回の記事では、Apple Vision Proを活用した医療の概論として、Apple Vision Proのデバイス紹介や電子カルテ、メンタルヘルス治療などの多様なアプローチについて紹介してきました。
本記事では、なかでもNature誌に掲載された論文『空間コンピューティングとAIを組み合わせた、不安やうつ病のメンタルヘルス支援の可能性』を中心に、医師のアバターを活用した“バーチャル外来”の取り組みや、社会学者の池上英子氏による自閉症の方のアバター研究などを紹介。XRとAIを用いたメンタルヘルス支援が果たす役割と、その重要性についてより深く解説していきます。
AIとXRを組み合わせた遠隔の“バーチャル外来”が現実に
近年、Apple Vision Proの公開にともなって生成AIと組み合わせた“診察”のシステムを開発する試みがはじまっています。
その一例が、帝京大学冲永総合研究所 Innovation Labの教授であり医師の杉本真樹先生が開発するシステムです。Apple Vision Proでアプリケーションを開くと、杉本先生自身の全身をスキャンしたアバターが患者の眼の前に現れます。1) このアバターはChatGPTと組み合わせて動作しており、患者の症状をヒアリングした上で、事前に学習させた医学的な専門知識に基づいてAIが自動で適切な診断を返します。1)
こうして医師のアバターによる“問診”について、杉本先生は「まるで本当に相手が目の前にいるように感じる」体験ができはじめていると語ります。1) 従来の技術でも、患者が自分自身で症状について検索して調べたり、医療の専門機関が運営するチャットボットのような自動返答システムを用いて症状について尋ねたりすることは可能でした。
一方で、Apple Vision Proの登場により、医師のアバターが患者と対話するインターフェースを気軽に採用できるようになりました。たとえアバターであれ、患者にとって目の前の人物と対話でき、すぐに返答してもらえる安心感は大きい。アバターと会話しているだけなので、「調べている」という感覚もないと杉本先生は語ります。1)
とりわけ、iPadやiPhoneなど他のアップル製品とVision Proはデータ規格が共通であり、すでに誰もが簡単に扱えるデバイスとして地位を獲得しています。そうした点からも、一般の人々にも医療現場にも、今後普及や浸透が進んでいくきっかけになるのではないかと杉本先生は言葉を続けます。1)
1分1秒を争う医療の世界において、誰もがいつでも簡単にアクセスできる遠隔の“バーチャル外来”は有効です。そして、これはメンタルヘルス支援の文脈においても導入されていく可能性があると言えるでしょう。
1)https://wired.jp/article/apple-vision-pro-medical-care-maki-sugimoto/
セラピストを模倣するAIの実証研究の登場
また、医師のアバターとの一対一の「問診」という形だけでなく、空間コンピューティングにはさまざまなフォーマットで患者のメンタルヘルス支援に貢献できる可能性があります。
その一例として、米国カリフォルニア州の非営利病院「Cedars-Sinai Medical Center」が研究を進める、拡張現実を用いた人工知能アシスタント「XAIA(eXtended-Reality Artificially Intelligent Ally)」が現在注目を集めています。同社がApple Vision Pro上に公開するXAIAアプリでは、人間のセラピストをシミュレーションして動作するアバターが、仮想空間内で没入型のセラピーをユーザーに提供します。2)
このアプリの公開に先駆けて、2024年1月にNature誌に掲載された論文『空間コンピューティングとAIを組み合わせた不安やうつ病のメンタルヘルス支援の可能性』*1 では、XAIAが開発された背景や、システム設計、臨床試験による効果検証などについて言及しています。3)
コロナ禍や経済的な緊張感、SNSによる孤立化などの要因により、米国ではメンタルヘルス問題の有病率が上昇。メンタルヘルス支援に対するニーズの高まりと、それに伴うセラピスト不足がXAIAの開発につながったと説明されています。3) また、心理療法には高額な費用や偏見(スティグマ)が存在し、手頃な価格でアクセスしやすいスティグマのない精神医療を提供するための革新的な解決策が求められていることも挙げています。3)
この実験では、軽度から中等度の不安や抑うつを抱える被験者が仮想空間に参加。GPT-4が組み込まれ、セラピストの専門知識をもとに動作するXAIAのアバターと会話することで、参加者は自分が「受け入れられている」「役に立っている」「安全である」という感覚を感じたとされています。3)
また、空間コンピューティングとAIアバターを組み合わせたデジタルセラピーでは、患者の状態をAIが判断し、穏やかな自然や瞑想に適した場所、音楽の選曲など、リラックスに最適な環境構築を個々人の状態に合わせて提供できることも特徴だと言えます。4)
こうしたXRを用いる方法は、とりわけ対面でのセッションにあまりオープンではない人や匿名性を求める人にとって魅力的な選択肢であることが示唆されました。3)また、XAIAは、孤独な人、在宅の人、専門医にアクセスできない遠隔地の人にとって有益であるとも説明されています。3)
2)https://www.cedars-sinai.org/newsroom/cedars-sinai-behavioral-health-app-launches-on-apple-vision-pro/
3)https://www.nature.com/articles/s41746-024-01011-0
4)https://healthtechmagazine.net/article/2024/04/spatial-computing-healthcare-perfcon
仮想空間内における「自助グループ」的アプローチ
さらに、「AIが人間に対してセラピーを施す」という人間と機械の関係性だけでなく、人間同士の交流を仮想空間が促進すること自体がメンタルヘルスの向上に役立つ可能性がある、という見方もできます。とりわけその恩恵を受けやすいのが、特定の障害や一般の人々とは異なる認知構造を持つ人々です。
その一例として挙げられるのが、自閉症の人々がアバターを通じた仮想空間内での生活を、現実世界よりも快適だと感じる現象です。社会学者・池上英子氏の著書『ハイパーワールド:共感しあう自閉症アバターたち』では、2003年に開始したメタバースの先駆的サービス「セカンドライフ」の中において、仮想空間内で生き生きと自己表現して交流しながら暮らす自閉症の人々の生活を描いています。*2
池上氏によれば、セカンドライフのコミュニケーションはアバターの表情が乏しく、感情を表現するジェスチャーが限られています。それゆえに、表情のニュアンスやジェスチャーから相手の感情を拾い上げることが苦手な人が多い自閉症スペクトラムのような方にとっては、むしろ快適なコミュニケーションが可能となるといいます。*3
また、仮想空間内では自閉症スペクトラムの人々が自らの障害を公言し、情報交換しあう当事者グループも存在します。5) そこで定期的に開催される会合では、仮想空間内のコテージに円形になって座り、「どうすれば学校や職場での人間関係がうまくいくか」や「症状や独特の身体感覚とどうつきあうか」などについて会話が交わされるといいます。5)
この事例は、仮想空間が特定の人々にとって、メンタルヘルスを支える「自助グループ」的に機能することを示唆していると言えるでしょう。
ここまで挙げた新しいメンタルヘルス支援の形の模索は、まだまだ試行錯誤の段階にあります。しかしながら、いままで対応できなかった人々の潜在需要にリーチできる可能性が大いにあります。「空間コンピューティング」と「AI」という急速な技術の発展が、メンタルヘルス支援のあり方を変える日はそう遠くないのかもしれません。
5)https://globe.asahi.com/article/11628570
<出典>
*1 Brennan M. R. Spiegel et al., Feasibility of combining spatial computing and AI for mental health support in anxiety and depression, npj Digital Medicine volume 7, Article number: 22, 2024
*2 池上英子,『ハイパーワールド:共感しあう自閉症アバターたち』, NTT出版, 2017
*3 小野直紀(編著),『広告 Vol.416 特集:虚実』セカンドライフ社会学 〜 社会学者 池上英子 インタビュー, 株式会社博報堂, 2022