第2回 「ヘミングウェイと糖尿病&うつ」対談前編


諏訪太朗先生

京都大学医学部附属病院
精神科神経科 病院講師
諏訪太朗先生

大川内幸代先生

刈谷豊田東病院
診療科医長
大川内幸代先生

医学が大きく進んだ時代を生きたヘミングウェイ

大川内先生 今回は、その生涯で何度も事故や病気を経験し、うつの症状や糖尿病、高血圧などの不調に悩まされながらも、素晴らしい作品を生み出したノーベル文学賞作家のアーネスト・ヘミングウェイについて、京都大学医学部附属病院 精神科神経科 病院講師の諏訪太朗先生とご一緒にさまざまな観点から対談させていただきます。よろしくお願いいたします。

諏訪先生 こちらこそ、よろしくお願いいたします。

大川内先生 とても楽しみにしてきましたので、早速お話に入らせていただきます。ヘミングウェイが生きた時代(1899年~1961年)は、2つの世界大戦(第一次世界大戦:1914年~1918年、第二次世界大戦:1939年~1945年)を経て、世の中全体が激変した時期です。医学も大きく進歩していますが、当時のうつ病に対する認識はどのようなものだったのでしょうか。

諏訪先生 1900年代前半までは精神疾患と言えば「入院して施設に閉じ込められてしまう病気」という捉えられ方でしたが、戦後の精神分析や外来精神医療の隆盛をうけ、それが少しだけ良くなったという感じでしょうか。とはいえ、精神疾患に対するスティグマはかなりあったと思います。例えば、1972年のアメリカ合衆国大統領選挙で民主党公認の副大統領候補だったトーマス・イーグルトン(Thomas Eagleton)は、1960年から1966年の間に何度かうつ状態になっていたことを隠してECT(電気けいれん療法)を受けていたのですが、それが発覚し世論から異常者のように揶揄され、結局候補から退かざるを得なくなりました*1。現代でも精神科に通っていることを隠したがる方は少なくありませんが、差別や偏見は今よりもはるかに大きかったと言えます。

大川内先生 一般には、まだまだ理解されない病気だったということですね。では、当時の治療についてはどうでしょうか。

諏訪先生 精神疾患に対して1950年代半ばまでは薬物療法はほぼ無かったと言って良いと思います。1960年代に入るとセロトニンやドパミンといった神経伝達物質を標的とした薬物療法が行われるようになりました。ECTは1938年から使われていますが、現代と比べると技法がかなり原始的で、無麻酔で行っていた時期もありました。ヘミングウェイがECTを受けた1960年ごろには安全性を高めるため技法の改良が行われ、麻酔薬や筋弛緩薬が使われていました。それでも、ヘミングウェイがECTによる記憶障害や言語障害に悩んだように、忍容性の問題から治療をドロップアウトする患者さんは少なくありませんでした。
それから、ロボトミー手術もまだ行われていました。これは現代からするととんでもなく野蛮で禁忌となっている治療法です。総括すると、ヘミングウェイが生きた時代は、現代につながる治療法の黎明期でしたが未成熟な状態であり、治療選択の基準となる診断分類はそれにも増してはまだまだ確立されていなかったと言えます。糖尿病はどうだったのですか?

大川内先生 そうですね、糖尿病治療もこの時代が一つの分水嶺になっていると思います。カナダのフレデリック・バンティング(Frederick Banting)とチャールズ・ベスト(Charles Best)がインスリンを発見したのが1921年で、1946年には作用持続時間が長い中間型インスリンが作られました。1950年代には今でも使われているSU剤や、メトホルミンといったビグアナイド薬が登場しています。

諏訪太朗先生

ただ、当時はまだ出始めのため、患者さんの症状やタイプによって使い分けをするまでには至っていないと思います。ちなみに、インスリンが発見された当時(1921年)、ヘミングウェイはカナダで新聞記者をしていましたが、パリとの2拠点生活のため、インスリン発見という一大スクープのチャンスを逃してしまったそうです*2

諏訪先生 インスリンが発見される以前、糖尿病に対してはどのような治療が行われていたのですか?

大川内先生 食事療法のみです。ですから、1型糖尿病の患者さんは極限まで摂取カロリーを減らした挙句、ガリガリに痩せて亡くなっていくような、本当に悲惨な病気でした。バンディングとベストがインスリン発見からわずか2年でノーベル生理学・医学賞を受賞したのも、それだけ優れた功績だったからだと思います。

諏訪先生 ヘミングウェイが生きた時代は、創薬を中心に医学全体の技術革新が進んだ時期ということかもしれませんが、糖尿病も精神疾患も同じような時期に治療法が発展しているところが興味深いですね。

ヘミングウェイは双極性障害の疑い

大川内先生 ヘミングウェイの人生は、戦争体験、家族の自殺、度重なる事故、4度の結婚と3度の離婚など波乱万丈でした。長年の暴飲暴食などによる血圧やコレステロール値の高さなども認められましたが、諏訪先生から見て、うつの症状はいつごろからあらわれたと思いますか?

諏訪先生 その話の前置きとして、まあこれは言い訳みたいな物ですが(笑)、アメリカ精神医学会が定める倫理規定の一つである「ゴールドウォーター・ルール」についてお話させてください。これは、自分が直接診察していない公的人物の精神的な状態をみだりに論じてはいけないという提言です。あとでこうしたことが本人やご家族を傷つけたり、何より、実際に診ていないのですから正確さを欠きます。その点を踏まえ、今回は既にオープンになっている事項や語られている諸説を対象に、コメントを付けるような形でお話しするよう心がけたいと思います。

また、偉人の精神疾患を語ることによって、「ヘミングウェイはうつだから優れた作品を残せた」といったように精神疾患とその人の芸術性や業績を結び付けて語られることもありますが、それはまさに推測にすぎません。そうではなく、「偉大な文学者のヘミングウェイは、うつに悩む患者でもあった」と精神疾患と過度に結びつけないことが大切で、それが正しい見方だと考えています。
このような理由から、最近、精神科領域では「自閉スペクトラム症の人」「双極性障害の人」ではなく、「自閉スペクトラム症を持つ人」「双極性障害を持つ人」と表現するようになってきています。今でもまだ精神疾患だけ、その人のパーソナリティと同一視されがちですが、糖尿病や高血圧と同様の一疾患であると捉えられる日が来ることを切望しています。

大川内先生 本当にそうですね。よく分かります。

諏訪先生 その上でお話すると、ヘミングウェイの場合、60歳以降に被害妄想や著しい活動性の低下があらわれていますが、うつの症状自体は54歳のときの飛行機事故後に顕著に出ている印象です。1954年1月、ケニアでヘミングウェイらを乗せたセスナが電線に接触し墜落し肩を負傷。翌日、負傷したヘミングウェイらを乗せた飛行機が離陸時に爆発炎上。頭は脳の漿液が出る重傷。他にも脊椎、肝臓、腎臓、脾臓に損傷を負い、左耳の断続的な聴力喪失、視力の低下と視界の二重化が生じています*3。ただ、それ以前にうつエピソードがあったのかどうか。大川内先生はご存じですか。

大川内先生 手元の資料には、36歳のときに小説家F・スコット・フィッツジェラルド(F.Scott Fitzgerald)の『崩壊』を読んでうつ状態になり不眠に陥ったとあります*3

諏訪先生 なるほど。そうだとすれば、それが初回エピソードと言ってもいいかもしれません。そして、断言はできませんが私自身は、ヘミングウェイは双極性障害を持っていたと疑っています。その理由としては、派手な女性遍歴やアルコールの乱用、それに家族歴です。ヘミングウェイの家族には双極性障害と診断された人が複数います*4。そういった情報が正しければ、36歳、そして61歳のときのエピソード(悲哀感が顕著となり異常行動が目立つようになる、被害妄想となり感情の抑制ができなくなる*3)は、双極性障害のうつ症状ではないかと考えました。

一方で、ヘミングウェイのうつ症状は、遺伝性ではなく何度も脳震盪を起こしたことによる慢性外傷性脳症によるものではないかという説もあります*5。米国の精神科医であるアンドリュー・ファラー(Andrew Farah)が著書の中で主張しているのですが、確かに、ヘミングウェイは頭部に損傷を受けた回数が多過ぎます。先ほど挙げた飛行機事故もそうですし、それ以前にも1918年には第一次世界大戦中に迫撃砲を受けて吹っ飛ばされ、1928年にはアパートの天窓が頭に落ちて9針縫っています。また、1944年に2度交通事故にあい脳震盪を起こし、頭痛、耳鳴り、言語障害などの症状があらわれるようになったそうです*3

大川内先生 普通では考えられないくらい多くの事故にあっていますね。

諏訪先生 これだけ頭部を損傷して脳震盪を起こした結果、ダメージが累積してパンチドランカーのような状態になっていたのではないかとファラーは言っています。ただ、この説には私はいくらか反論もあります。その一つはやはり家族歴です。また、階段状に悪化しているのではなく、1954年の飛行機事故のあとにガクッと悪化している印象がある点もファラーの主張と若干食い違っています。とはいえ、これだけの回数、脳震盪を起こす人はあまりいないので、無視できない点であることは間違いありません。

ヘミングウェイのお父さんも糖尿病に苦しむ

大川内先生 興味深いお話が出ましたが、脳血管障害などの可能性はどうでしょうか。ヘミングウェイはお酒が好きだったことは有名ですし、血圧もコレステロール値も高いものでした。

諏訪先生 確かにその可能性は外せませんね。若い精神科医がカンファレンスで触れなかったら上司から怒られるポイントです(笑)。精神症状は心理的な解釈だけでなく、家族歴や外傷、生活習慣などさまざまな観点から検討する必要があります。ヘミングウェイの糖尿病についてはどうでしょうか。

大川内先生 ヘミングウェイが糖尿病と診断されたのは61歳のときのようですね。その4年前、57歳のときに高血圧、肝炎、大動脈炎症と診断されており、血圧210/105 mmHg、コレステロール値380 ㎎/dLという数値も残っていますので、そのときにいろいろな検査をしているはずです*3。ここで糖尿病と診断されなかったということは、ずっと以前から発症していたわけではないと思います。

以前にヘミングウェイについて記事を書かせていただいたことがありますが、医者であるお父さんも糖尿病に苦しみ、足壊疽がわかったその日にピストル自殺をしたそうです*6。ヘミングウェイが最も太っていたときはBMI値35.8kg/m2(身長180cm、体重116㎏で算出)くらいありましたので、発症要因には体型や生活習慣もあったと思いますが、遺伝的要素も大きかったと考えます。

諏訪先生 BMI値が35.8 kg/m2で、糖尿病、高血圧、肝炎などがあり、数多くの事故を経験しうつの症状も抱えていたノーベル賞受賞の大作家…。

大川内先生 なかなか出会うことのない患者さんですね。

大川内幸代先生

<後編に続く>

※本コンテンツの歴史に関する記載には、諸説ある中のひとつを取り上げた部分が含まれています。予めご了承ください。

*1 エドワード・ショーター、デイヴィッド・ヒーリー「<電気ショック>の時代」みすず書房、2018年
*2 堀田饒「切手にみる病と闘った偉人たち」ライフサイエンス出版、2006年
*3 新関芳生編集「ヘミングウェイ年譜 病気と怪我とテクスト」『ユリイカ』青土社、31(9)1999.08 、P214~223.
*4 Christopher D. Martin. Psychiatry. 2006 Winter;69(4):351-61.
*5 HEMINGWAYS BRAIN(JOHN F,KENNEDY PRESIDENTIAL LIBRARY AND MUSEUM)
  https://www.jfklibrary.org/events-and-awards/forums/past-forums/transcripts/hemingways-brain(参照日 2023-02-10)
*6 大川内幸代「歴史人物の病を量る ヘミングウェイとうつと糖尿病」『糖尿病プラクティス』39(4)2022.07 P458~459.

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