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第2回 「藤原道長と糖尿病」対談前編
京都大学医学部附属病院
糖尿病・内分泌・栄養内科教授
稲垣暢也先生
刈谷豊田東病院
診療科医長
大川内幸代先生
藤原道長は糖尿病の家系だった
大川内先生 今回は、京都大学医学部附属病院 糖尿病・内分泌・栄養内科教授の稲垣先生とご一緒に、「藤原道長と糖尿病」をテーマに当時の時代背景や道長の性格、生活習慣、医療などさまざまな観点から対談させていただきます。よろしくお願いいたします。
稲垣先生 こちらこそ、よろしくお願いします。私も歴史が好きなので、楽しみにしてきました。道長は、日本最古の糖尿病患者とされていますね。1994年に神戸で開催された「第15回国際糖尿病会議」を記念して発行された切手にも、道長の肖像画が使われています。
大川内先生 そうなんです。平安時代のころ、糖尿病は高血糖からくる口渇で水をよく飲むことから「飲水病」と呼ばれていました。藤原実資(さねすけ)が書き綴った『小右記(しょうゆうき)』*1という日記には、道長についてずばり「飲水病」と書かれています。また、道長の近親者では、娘の彰子と一条天皇との間にできた子どもである後一条天皇が、飲水病が原因でわずか29歳で亡くなったと言われています*2。
稲垣先生 道長の兄の道隆と、道隆の長男の伊周(これちか)も糖尿病だったようですね。確か、伊周も若くして亡くなっていたと記憶しています。
大川内先生 伊周は36歳で亡くなっていますね。ただ、道隆も伊周も死因ははしかと言われています。
稲垣先生 そうなんですね。私は今、日本糖尿病学会の「単一遺伝子異常による糖尿病の成因、診断、治療に関する調査研究委員会」の研究責任者をしていまして、そこでMODY(Maturity Onset Diabetes of the Young:若年発症成人型糖尿病)の原因遺伝子を調べ、遺伝子の異常と糖尿病発症との関連を研究しています。後一条天皇も伊周も、亡くなった年齢から考えると発症はかなり早かったと考えられますね。MODYの定義には非肥満が含まれるため、道長は肖像画を見るとぽっちゃりしているので単一遺伝子異常によるMODYではないと思いますが、遺伝的素因があったことは確かなのではないでしょうか。
健康的とは言えない平安貴族の生活様式
大川内先生 体型については、稲垣先生のおっしゃる通り肥満だった可能性が高いです。当時はぽっちゃり体型が美男子の基準とされていて、国宝の『源氏物語絵巻』*3に描かれている光源氏(諸説あるが藤原道長がモデルとも言われている)もぽっちゃりしています。身長に関しては、篠田達明先生(医師・作家)が、さまざまな歴史上の人物の身長を推測していらっしゃるのですが、それによると道長の身長は172.7cmだそうです。当時の男性の平均身長は159~163cmですから、かなり大柄で体重もそれなりにあったのではないでしょうか*4。
稲垣先生 肥満は、食生活が関係していたのかもしれませんね。貴族の食事は主食が白米で、宴会などでは品数も多かったしもちろんお酒も出されます。道長は気配りの細やかな人物だったと言われていますから、人付き合いも大事にしていたでしょう。権力闘争の激しい人間関係の中で、宴会で出された料理に手をつけないとか、お酒を控えるといったことは難しかったのではないでしょうか。
大川内先生 毎日のご馳走も、ご本人にはストレスだったのかもしれませんね。しかも、移動には牛車を使いましたから、体を動かす習慣もあまりありません。
稲垣先生 道長の場合、遺伝的素因に加えて、豪華な食事や運動不足といった平安貴族の生活様式、さらには権力闘争によるストレスなども、糖尿病の発症に影響しているように思います。ただ、豪華な食事といっても当時の貴族ではそれが普通でしたし、宴会も仕事の一部のようなものです。運動不足に至っては、そもそも「運動」という概念があったかも疑問です。つまり、道長は過食や運動不足から糖尿病を発症したと考えるのは、少し短絡的な気がします。当時の時代背景や道長の身分を考えれば、ごく当たり前の生活だったのかもしれませんね。
糖尿病の発症は40代のころか
大川内先生 道長は、51歳ごろから口の渇きなどの症状があらわれ、53歳には胸の痛みや視力の低下も出現していると言われています。糖尿病の発症は、何歳くらいと推測されますか?
稲垣先生 個人差もあるので一概には言えませんが、51歳時点の少なくとも5年以上前には発症していたのではないでしょうか。大川内先生はいかがでしょう。
大川内先生 道長が現代の健康診断を症状が出る5年か10年くらい前に受けていたら、血糖値で引っかかったのではないかと思います。
稲垣先生 そうですね。現代でも、健康診断を受けないまま症状が出て来院されるケースがないわけではありません。そういう患者さんは、発症時期や自覚症状が出た時期の特定はなかなか難しいものがあります。ところで、平安時代の医療は、どのようなものだったのでしょう。薬師(医師)などはいたのですか?
大川内先生 薬師はいましたし、道長が口の渇きを抑えるために柿の汁や葛根を服用していたという記録もあるようです。当時の医療としては、加持祈祷もありました。道長も晩年には、鴨川の西辺に建立した法成寺で、しばしば大がかりな祈祷を行わせていたようです。
稲垣先生 なるほど。糖尿病は「飲水病」のほかに「消渇」とも呼ばれていて、口が渇きやすくなるだけでなく体力の消耗が激しくなるといった症状も知られていたんですよね。それで、これはまったくの想像ですが、こうした消耗性の疾患に効果のある漢方薬が使われていたのではないかと思い、うかがいました。
大川内先生 滋養強壮的な使われ方ですね。それはあったのではないでしょうか。道長もカリロク丸(乾燥果実)を、養生薬として服用していたという記録が残っています*1。
晩年はさまざまな合併症に苦しむ
大川内先生 自覚症状が出てからは、道長はそれなりに養生していたようですが、53歳ごろからは視力低下、胸の痛み、背中の癰(よう)、下痢などのさまざまな症状に悩まされるようになります。これらは、糖尿病の合併症とも考えられますね。
稲垣先生 十分説明がつくと思います。まず視力低下は、糖尿病の三大合併症のひとつである網膜症ですね。高血糖を放置していると、数年から10年程度で視力が低下するケースが見られます。
大川内先生 胸の痛みについてはどうでしょうか?胸痛で大声を上げて叫び苦しんだといった記録が残されていますが*1。
稲垣先生 狭心症もしくは心筋梗塞を疑いますね。というのも、肥満の方は、糖尿病の比較的早期から、大血管症が起こることがあるからです。それから、癰も糖尿病の合併症と考えて良いのではないでしょうか。癰は皮膚の感染症です。糖尿病にかかると感染症のリスクが高くなり、典型的なものは足の白癬ですが、腎盂腎炎など治療に難渋する感染症も起こり得ます。
大川内先生 下痢も感染症の可能性がありますね。もしくは神経障害か、食あたりかもしれませんが。
稲垣先生 感染症だったら、当時なら細菌性の赤痢などが考えられそうですね。
歌に詠んだ「望月」は見えていなかったのでは
大川内先生 51歳で自覚症状があらわれ、亡くなったのが62歳ということは、道長は晩年の10年余り病に苦しんだことになります。有名な『この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば』という歌は、道長が53歳のとき、三女・威子の立后(天皇が結婚して皇后を正式に定めること)の宴席で詠まれたものですが、そのころはすでに視力が低下していました。自らの日記『御堂関白記』*5には、「2~3尺(約60~90cm)離れた人の顔も見えなかった」と記されています。ですから、実際には月は見えていなかったかもしれません。
稲垣先生 なるほど、そういうことも考えられますね。
大川内先生 そして、道長は亡くなる直前まで癰のあまりの痛みに声を上げていたとか、臨終の床では両手の指と9体の阿弥陀像との間に糸を結び、無事に浄土へ辿り着くよう念じたとも言われています。
稲垣先生 糖尿病を治療せずに10年放置すると、ここまで深刻になるという症例と言えます。本当に恐ろしいですよ、糖尿病は。
大川内先生 道長は決して短命ではありませんでしたが、このような晩年は気の毒に思えますね。
<後編に続く>
※本コンテンツの歴史に関する記載には、諸説ある中のひとつを取り上げた部分が含まれています。予めご了承ください。
*1:小右記。平安時代の公卿、藤原実資の日記
*2:栄花物語。平安時代初期の宇多天皇から後期の堀河天皇までの15代・約200年間におよぶ宮廷の歴史を、仮名文を用いて編年体で記した歴史物語
*3:源氏物語絵巻。紫式部が著した『源氏物語』を抒情的な画面の中に描き出した日本を代表する絵巻
*4:篠田達明『日本史有名人の身体測定』KADOKAWA、2016
*5:御堂関白記。藤原道長が著した日記。現存する最古の直筆日記としてユネスコ記憶遺産に登録