第2回 「夏目漱石と糖尿病」対談前編


古川慎哉先生

愛媛大学 総合健康センター
教授 古川慎哉先生

大川内幸代先生

刈谷豊田東病院
診療部 部長 大川内幸代先生

漱石の時代、糖尿病はまだ一般的ではなかった

大川内先生 今回は、40歳で大学講師から職業作家に転身し、胃潰瘍や神経衰弱など生涯にわたり病気に悩まされつつ数々の名作を著した文豪・夏目漱石について、愛媛大学 総合健康センター 教授 古川慎哉先生とご一緒にさまざまな視点から対談させていただきます。とても楽しみにしております。古川先生、どうぞよろしくお願いいたします。

古川先生 こちらこそ、よろしくお願いいたします。

大川内先生 それでは、早速お話に入らせていただきます。夏目漱石は1867年に生まれ、1916年に49歳で亡くなっています。糖尿病と診断されたのは晩年になってからのようですが、当時の日本では、まだまだ糖尿病は一般的ではなかった時代です。

古川先生 そうですね。むしろ、まれな病気と言ってもいいかもしれません。1916年ですと今から100年以上も前ですが、現在80歳ぐらいの先生にうかがっても、その先生が若手だったころ、研究会などで、外来に糖尿病のある人が来たというと「(糖尿病は)どんなだった?」と話題になったそうです。それぐらい、糖尿病は珍しい病気に該当していたのかもしれないですね。

大川内先生 糖尿病は自覚症状が出にくい病気ですから、当時は罹患していても病気に気付くことができないケースもあり、「糖尿病のある人」としてはあまり表に出てこなかったとも考えられますね。漱石の場合は、ある程度地位のある方で教え子に医師もいたので、糖尿病に気付けたのではないでしょうか。

古川先生 それはありますね。当時はまだ栄養不足の時代ですから、医学界としても脚気の治療などのほうが重要視されていたと思います。糖尿病についても、その概念はあっても、腎不全の原因になるとか、そこまではまだ知られていなかったかもしれないですね。

大川内先生 ちなみに、漱石が亡くなったのは1916年で、インスリンの発見が5年後の1921年です。ただ、漱石自身には病識はあったと思います。実際、日記には糖質制限を指示されて実行したというような記述があります*1。また、未完成の遺作となった『明暗』には、主人公の妻の叔父が糖尿病という設定で、「日本に生まれて米の飯が食えないんだから可哀想だろう」と嘆く台詞も書かれています*2

古川先生 確か糖尿病の経口薬が登場するのは、第二次世界大戦(1939年~1945年)の後のことですね。

※1957年にスルホニルウレア(SU)薬のトルブタミドが国内で使われ始める。1955年に同じくSU薬のカルブタミドが国内に輸入されたが臨床には使用されなかった*3

大川内先生 ですから、病気としてはもう知られているけれど、治療法としては糖質制限を行う食事療法しかなかったというのが、漱石の時代の糖尿病だったと思います。

古川先生 おっしゃる通り、現代とは違って食事療法しか選べない時代でしたから、患者さんはつらかったと思います。

古川慎哉先生

漱石の糖尿病は30代前半に発症と推測

大川内先生 漱石の教え子だった医師の真鍋嘉一郎(1878~1941、物理療法・レントゲン学・温泉療法の先駆者)は、漱石が38歳のときに尿検査を行い、多量の尿糖が出ているのを発見しました*4。漱石は40歳のときにも尿糖を指摘されているし、43歳のときに胃潰瘍のために入院した際にも、尿中にわずかの糖が認められたという記録があります*4。もちろん、尿糖だけで判断することはできませんが、このような記録から古川先生は、漱石は何歳ごろから糖尿病を発症していたと考えますか?

古川先生 38歳で尿糖が出ているのであれば、今の診断基準であれば、おそらく30代前半くらいからではないかと推測します。少し気になっているのが、最晩年に主治医となった真鍋医師が、48歳ごろから出てきたリウマチ性疾患と思われた肩腕部の痛みを、糖尿病が原因と診断したという話です*4。激しい鈍痛で、神経痛に加えて不全麻痺も合併していたとのことですが、大川内先生のお考えはいかがですか?

大川内先生 痛みの種類としては、確かに典型的ではありませんね。違うとは断言できませんが、糖尿病神経障害は一般的には下肢あたりの痺れから始まりますから。

古川先生 そうですよね。その一方、糖尿病と診断がついてから10年ぐらい経っていたら糖尿病神経障害が出たとしてもおかしくはないです。個人差があり症状も多様ですから。

漱石はインスリンの分泌量が少ない体質だった?

大川内先生 漱石は暴食の傾向があり、かなりのヘビースモーカーでしたが、一方でアルコールはあまり飲まなかったそうです。体型を見ると、身長158.7cm、体重52kgと当時の日本人男性の標準で、特に恰幅がよいわけでもありません。学生時代は水泳やボート、器械体操などを楽しみ、健脚で散歩も好きでした。そういう人が30代前半からじわじわと糖尿病を進行させていたとすると、原因は何が考えられると思われますか?

古川先生 漱石は、けっこう神経質な感じですよね。慣れない海外生活で神経衰弱にもなっています。こうした精神疾患は、糖尿病リスクを高めるといわれています*5。学生時代は運動も好きだったようですが、作家になってからは基本的に座り仕事だったでしょうし、うつ状態になればさらに活動量は低下します。そういったことも含めて、性格自体に糖尿病のリスクがあったと解釈することもできますね。

大川内先生 漱石は若いころからさまざまな病気に苦しんだ人です。3歳で天然痘、19歳のときに腹膜炎、その翌年には急性トラホーム、27歳で肺結核の初期と診断、胃潰瘍や神経衰弱にも罹っています。このように病気ばかりしていたこと自体も、ストレスだったかもしれません。そう考えると、漱石の人生はストレスまみれで気の毒ですね。それから、家族歴については詳しく分かりませんが、もしかしたら遺伝的な要素もあったのではないかと考えています。

あと、漱石の甘いもの好きはよく知られていますが、甘いものを食べたから糖尿病になるという考え方は、あまりよくないと思っています。ただ、好きだったことは確かですし、食べても太っていないというところから、漱石はインスリンの分泌量が少ない体質だったと考えられます。

古川先生 そうですね。30代前半から発症していたとすると、もともと糖尿病の素質はある気がします。やっぱり遺伝的な背景もあったかもしれません。

大川内先生 昔の日本人に多かった、肥満体型ではないけれどインスリン分泌量が少ないタイプだったのではないかという推測ができます。

古川先生 相対的に日本人よりも大柄な欧米人は、太っている方に糖尿病が多い傾向がありますが、日本人は太っていないのに糖尿病に罹っている方もけっこういます。これは身長が高いほど膵臓が大きく、インスリン分泌量が多いということも背景にあると思います。つまり、同じBMIであっても、日本人は欧米人に比べると小柄だから、普通に考えれば膵臓の大きさも小さいということです。

厳重食で糖尿病は改善したが、胃潰瘍で死去

大川内先生 それはありますね。また、単純に甘いものをたくさん食べていたということとは違いますが、漱石にとっては食べ物も影響しているかもしれませんね。当時の日本ではあまり食べられていなかったシュークリームやアイスクリームが好きで、牛肉も大好物で何かというと牛鍋を食べていたようです*6。当時の一般庶民とは、だいぶ違う食生活だったと思います。

古川先生 食生活をエンジョイしていた感じがありますね。当時、質素な生活をしている人に比べて、脂質も糖質も多めだったとは思います。しかも、怒りやすい人は早食いのイメージもありますね。

大川内先生 漱石の家にはお弟子さんや作家仲間の方が頻繁に出入りしていたようですから、美味しいものを食べる機会も多かったのかもしれません。それなのに、晩年は、糖質を徹底的に制限する厳重食を取り入れています。がんばっていますよね。

古川先生 糖質過多の糖尿病のある人にとっては、糖質制限は一つの有効な治療法だと思います。治療薬がなかった当時は、この選択しかありませんでしたから。ただ、今の考え方に当てはめると当時の厳重食(糖質を含まないタンパク質と脂肪だけの食事で開始し、尿糖をいったんゼロにして、それから尿糖が出ないことを目安に食事の糖質を少しずつ増やす方法*7)は、少し極端すぎる気もします。

大川内幸代先生

大川内先生 そうですね。ここまでの経過から見ると、漱石は2型糖尿病で、糖質をそこまで徹底して制限しなくても、即重篤化につながることはなかったとは思います。しかし、漱石は食事療法をがんばり、1916年の春には尿糖3+程度だったのが、夏には150gのパンを食べても尿糖が出なくなっていたようです*4

古川先生 糖尿病に関しては、明らかに改善が見られますね。

大川内先生 ただ、糖尿病よりも胃潰瘍のほうが問題で、この年の11月に激しい胃痛で臥せてしまい、1カ月ほど後の12月9日に亡くなっています。病理解剖の結果、「胃潰瘍からの大量出血による失血死」と認められたそうです。

古川先生 当時は治る病気自体が少なかったのかもしれませんが、その時代を代表する人物が胃潰瘍で亡くなっているんですよね。改めて、現代は恵まれているという感じがします。

<後編に続く>

*1 夏目金之助「漱石全集 第二十巻」岩波書店、1996年
*2 夏目漱石「明暗」新潮社、1987年
*3 糖尿病医療 進歩の歴史 -全記録年表-(糖尿病リソースガイド)
  https://dm-rg.net/history/chronology(2023年9月30日閲覧)
*4 中嶋一雄「夏目漱石の持病-糖質制限食による治療の考察-」 認知症治療研究会誌、 2022、9(1)P34~37
*5 糖尿病とこころ(厚生労働省 e-ヘルスネット)
  https://www.e-healthnet.mhlw.go.jp/information/heart/k-05-006.html(2023年9月30日閲覧)
*6 河内一郎「漱石、ジャムを舐める」創元社、2006
*7 佐藤義憲「あの漱石も糖尿病だった・・・」日赤通り広報版、2017、43 P2~3

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