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第3回 「夏目漱石と糖尿病」対談後編
愛媛大学 総合健康センター
教授 古川慎哉先生
刈谷豊田東病院
診療部 部長 大川内幸代先生
癇癪持ちの漱石、真面目で我慢強い一面も?
大川内先生 胃潰瘍に神経衰弱、そして糖尿病など、いくつもの病気に苦しみながら多くの名作を遺した文豪・夏目漱石。晩年には厳しい食事療法を行い、尿糖は改善されつつありましたが、胃潰瘍からの大量出血により49歳でその生涯を閉じました。ここからは、「夏目漱石の主治医だったら」というテーマで、現代の医療が使えるならどのように治療するのか、古川先生とご一緒に検討させていただきたいと思います。
古川先生 分かりました。よろしくお願いします。
大川内先生 まず、古川先生は「患者・夏目漱石」は、どのようなタイプだったとお考えですか?
古川先生 性格的にはかなりの癇癪持ちで、何かというと大声を張り上げ、自分の子どもに対してもステッキで打ち据えるといったことをしていたようですね*1。ちょっと一筋縄ではいかない感じで、看護師に「いつまで待たせるんだ」と怒鳴ったり、診察しようとしたら急に怒って帰ってしまったりとかもありそうです。そのため、まずは人間関係の構築をしっかり行う必要があると思います。
大川内先生 漱石はすごくストレスフルな人生を送っていたと想像しています。小さいころから病気がちで、大人になって英国に留学すれば、孤独感にさいなまれたりもしました。一方では、「帝大の講師」とか「作家の先生」という社会的地位があったため、周囲にあまり弱音は吐きにくかったのではないでしょうか。そういった背景も理解して、「大変ですよね」と寄り添うことから始めるのが大切だと考えます。
古川先生 病気を診るだけではなく、その人の背景や内面も十分把握したうえで治療をしていきたいですよね。また、漱石には癇癪持ちの面もありますが、自分のことはきっちりやるという一面もあると考えます。
大川内先生 たしかに、漱石は厳しい糖質制限をがんばっていましたね。ここに、真面目で我慢強い性格があらわれているように思います。
古川先生 数カ月ほどの糖質制限で尿糖を抑えるのに成功していますからね*2。
大川内先生 若いころは運動をしていたし、健脚でよく歩いたそうですから、運動療法も意外と苦にならないかもしれないですね。
動画コンテンツを活用して、一緒に治療方針を考えていく
古川先生 漱石は帝大の講師で作家ですから、当然インテリジェンスは高いですよね。自分の病気についても、これはどういう病気なのか、どんな症状があらわれるのか、なぜこのような治療が必要なのか、といった本質的な部分を理解し、納得していただけたら、案外スムーズに治療ができるのではないでしょうか。
大川内先生 同感です。今はインターネットを使えば、患者さんも病気や治療法について自分で調べることができます。実際、私も若い患者さんには、「次の診察までにこれとこれについて調べて、どれが良いと思ったか教えてください」といった形で、ある程度範囲を絞ったうえで、一緒に治療方針を考えてもらうことがあります。
古川先生 私も同じで、患者さんに自分で調べてもらうということを意識的に行うことがあります。例えば「この薬についてインターネットで調べて、解説動画もいくつか見ておいてください」と言うと、次の外来では、患者さんなりにある程度の治療方針を考えていらっしゃる。そこで補足説明をしようとすると、「それも調べました」となることさえあります(笑)。この方法は、漱石にも向いていそうですね。例えば、「小説を書きながらでいいので、動画も流して見てくださいね」ぐらいの感じでお願いするのも良いかもしれないです。
大川内先生 癇癪持ちの漱石なら、くどくど説明されるよりスピーディに理解したいでしょうから、簡潔な動画をお勧めするのがいいかもしれません。私は少し前から、SNSでつながった若手専門医の先生たちとサークルを作り、手弁当でYouTubeに治療や予防に関する一般の方向けの動画をアップしていますが、1分間のショート動画になるようまとめています。短い分、本数を多くして、必要なものを選んで見られるようにしています。
古川先生 長い動画だと見てもらえないですよね。こういったコンテンツを使って、漱石のインテリジェンスを刺激するのは効果的だと思います。
大川内先生 では、現在の治療薬が使えるとしたら、古川先生はどのような薬剤を選択しますか?
古川先生 漱石は標準体型で肥満もないですよね。実際に診察をしないと断定はできませんが、この薬剤は駄目というのはあまりないような気がします。
大川内先生 早食いで糖質が多めの食習慣に注目すると、α-グルコシダーゼ阻害薬も考えられます。あるいは、漱石はインスリン分泌量が少ないと考えられるため、インスリン製剤とGLP-1受容体作動薬の配合剤もいいかもしれないです。ただ、確かにこれは駄目という薬剤がなさそうなので、私はまずはビグアナイド薬から使うかもしれないです。
古川先生 糖尿病性腎症もあったそうなので*2、詳しい検査をして問題がなければSGLT-2阻害薬を提案するかもしれません。肥満ではないのでDPP-4 阻害薬でもいい気がします。結論としては、実際に使ってみて、経過を見ながら、使いやすさも含めて最適な薬剤を見つけていくと思います。
大川内先生 そうですね。先ほどの「YouTube見てきて作戦」のように、こちらで決めこまずにいろいろ調べてもらって、「どれがよいと思いましたか?」と問いかけたりして、ご自身に合った薬剤を見つけていくのも良さそうです。
古川先生 一緒に治療していきましょうというスタンスだと、治療に前向きになってくれそうな気がしますね。
データを示し記録をとって治療参加を促す
大川内先生 薬物療法にプラスして、生活習慣の改善も必要だと思います。私が真っ先に改善していただきたいのはやはり喫煙習慣ですが、漱石の時代(1867年~1916年)を考えるとこれが意外と苦労するかもしれません。
古川先生 当時、喫煙習慣は当たり前で、むしろ国策として喫煙を推奨していた時代ですよね*3。まずは、喫煙は健康に害があるという点を十分に理解してもらわないといけませんね。
大川内先生 例えば、データを示して「禁煙するとこれだけ疾患のリスクが下がります」と説明すると、納得して禁煙できる可能性はあるのではないでしょうか。
古川先生 漱石には、数字を示すのは効果がありそうですね。栄養指導も必要だと思いますが、こちらはどのようにするのがよいと思われますか?
大川内先生 私が栄養指導をするときには、患者さんの食事を作っている方にも、できるだけ来ていただくようにしています。漱石の場合は鏡子夫人ですね。ただ、彼女は良く言えばおおらか、悪く言えば大雑把な性格だったようなので、例えば夏なら「朝食にはトマトを洗って出せばいいですよ」とか、まずはとにかく簡単にできることをお伝えすると思います。
古川先生 あとは、漱石ご本人に食べたものを記録していただくのも良さそうですね。自分の生活を客観視して理解していただく上でも、有効だと思います。
大川内先生 いいですね! どうせだったら、健康管理アプリを使ってもらうのはどうでしょう。私の患者さんにも、アプリを使い始めて食事内容や運動量を記録するようになったら、体重が減って血糖値も改善してと、よい影響が出た方がいます。漱石は記録が得意なので、興味を持って取り組んでもらえそうな気がします。
古川先生 YouTubeやアプリを活用する漱石。見てみたいですね(笑)。
長生きしていたら、新たなジャンルを開拓し、新たな文学賞も生まれていたかも
大川内先生 最後に、現代の医療によって糖尿病や胃潰瘍などの症状を抑えることができていたら、漱石の人生はどう変わっていたかを考察していきたいと思います。
古川先生 作家や画家は、人生のイベントごとに作風が大きく変わることが多いです。漱石と言えば、松山に『坊ちゃん』の関連がとても多いこともあって、私はやはり漱石作品群の前半の溌剌としたイメージなのですが、後半になると雰囲気が変わり沈鬱な作品が増えてきます。それが病気のつらさに影響されていたものかどうかは定かではありませんが、現代の医療でそのつらさを緩和できていたとしたら、明るい作品がもっと多かった可能性はありますね。あるいは、今までとは違う実験的な作品に挑戦していたかもしれません。
大川内先生 『吾輩は猫である』は、猫の目線で世の中を見るという、当時としてはけっこう斬新な発想の小説でしたから、新しいジャンルを開拓した可能性は大いにあると思います。明るくて元気で、今で言えばライトノベルのようなガラッと違う小説の作家になったかもしれないですね。
古川先生 文学界の主要な賞として、「芥川賞」のように「夏目賞」ができていた可能性もありますね。
大川内先生 ありえますね。漱石は若い作家との交流もありましたから、長生きされたらお弟子さんもたくさんとって、優れた文学者を育てることで日本文学がさらに底上げされたかもしれません。
古川先生 もっと言えば、作家だけで終わっていなかったことも考えられます。今でいうYouTuberのような、独自視点での情報発信をやろうと思えばできるくらいの先鋭的な才能はあったのではないでしょうか。
大川内先生 作家の枠を超えたマルチメディアクリエーターですね。その可能性も十分にある気がしますね。今日は先生にいろいろとお話を伺い、どんどん想像が膨らんでいって本当に楽しかったです。どうもありがとうございました。
古川先生 最後は、いつも苦虫を嚙みつぶしたような顔の漱石とは、まったく違う人物像になりましたね。漱石は胃潰瘍のイメージが強かったので、漱石と糖尿病というテーマは非常に新鮮で興味深かったです。こちらこそ、どうもありがとうございました。
*1 山崎光夫「胃弱・癇癪・夏目漱石 持病で読み解く文士の生涯」講談社、2018
*2 中嶋一雄「夏目漱石の持病-糖質制限食による治療の考察-」 認知症治療研究会誌、 2022、9(1)P34~37
*3 繁田正子「タバコ学事始」京府医大誌、2009、118(11)P699~709